例え話をしよう。

2006年12月11日
たとえば、僕と僕の愛する彼女等の話。

僕等は同じことばを理解し、世界を同じ色彩越しに眺めため息をつく。
或いはこうも云える。
体温が同じで、同じ音に感応して夢から醒めない二度寝を選ぶ。

ほかのひと、がどうだかは知らないし
たとえことばが通じても色彩が、体温が、選択が違うひとも存在する。
共通項、それを「同じにおいがする」と云うのだろう。

と。
僕は僕等のことをこういう表現方法を使ってあらわすし、これは僕の表現技巧なり世界観なりを少なからず(というか大部分)反映しているのだと思う。
脳髄から引っ張ってきてるから、当然だけれど。
けれど。
さて、これが言語として顕在化される以前の段階ははたして如何だろう。
思考、或は思想、思惟、脳内妄想、まあなんだって構わないのだけれど、つまりは「日本語化」される前、脳内信号(て、あってるのかな。わからん)で動く部分。

たとえば会話において。

顕在化するのが「ことば」で、その総称を「会話」とすれば会話の背後には当然このレヴェルでの思考が動いているけれど、その流れは個人の機構であって密室なのだから漏れることもない。

感覚ではこう。

提示されることばは鼓膜を通ってフィルタで濾過され、その過程において僕の脳内に貯まっている(言い換えれば僕の理解できる)ことばへと色を変え、喉を通って形を変えたことばになる。
透過されなかったことばは自分で噛み砕いてフィルタを通過する粗さまで細かくする、或いは外部の手を借りて彩度・明度の似ていることばに直接変換される。

あたまを使ってはいるのだろうけれど
ことばを使っている訳ではない。

感覚をことばにトレースすることはできる。
けれどことばを使っていない場所なのだからそれを説明はできない。
そんな感じ。

もっといろいろ書こうと思ったけど
なんか駄目駄目なのでまた何時か。

 

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